人の数だけの欲望と、星の数にも等しい死が渦巻くこの大陸を、総て見下ろしそれらの余波を受けない場所がある。
竜が守る塔の頂点にあると言われ、その通りだった場所。けれどそこは彼にとってこの世の楽園でもなく、眩しい栄光の世界でもなく、この空間がそう呼ばれるに相応しいとも思えない。
それはこの地に憧れる者たちの浅はかさを知るようで、反面自分がこの地に何かしら別の期待を抱いていたようで、至極判断に難しい。しかし今更、彼の反応を見たがるものなどいるはずがない。
硬さを感じさせない水晶の玉座に深々と腰を掛けながら、彼は吐息を吐いたような、吐かないような――曖昧な視線を投げかける。下界と呼ばれる世界に向かって、天界と呼ばれるここから。
望めばすぐに見通せる。難攻不落と呼ばれる城と数多の衛兵を機能的に使い間者を寄せ付けぬ世の支配者であっても、いかに魔力に敏感な者たちに守られた姫や男であっても、この世で最も危険な魂を貪り食らう悪鬼であっても、いずれも同じく彼の視線から逃れられず、それに気付くことすらできない。
だが見るだけでは何もしていないのと同じこと。彼からの拒絶も祝福も受けない下界の者たちは、同時に彼から何も思われていないのだ。
魔力を持って望めば姿を現す白い羽を持った美しい使いたちもまた同じく。彼らは使いである以上、主神であり聖神と呼ばれる彼の思考に順応する。言葉や文字などに捕らわれる必要もなく、ただ思考そのものを感じ取って正しく機能するだけの存在となる。
恐らくはあの黒い羽の神も、半陰陽の神もその機能について実に面白い玩具を手に入れたつもりで使っていたのだろうが、彼はそれらにも興味を持たなかった。彼が使いたちに持つ感情があるとすれば少しの失望。だがそれも仕方ないと思えてしまうのは、悟ってしまったと言うことか。
悟りなど持つものではなかったのかもしれないと、不意に思うこともあるが、そう思うことにすら大きな感情は傾かない。穏やかになりすぎた自分に違和感を覚えながら、彼は虚空に手を差し伸べた。
「…………」
喉を震わせるが、音までは漏れない。声ならぬ声でその意識を呼ぶと、差し伸べられた手に、白い輝きが瞬いた。まるで、応じる女の手が重なるように。
――どうかしたの?
女の優しい声が聞こえてくる。耳ではない器官に届く音色ではないが、それは確かに彼にとって懐かしく愛しい響きを持って、彼の耳をくすぐった。
「退屈だ」
反応に対し緩やかな視線を送りながら、けれど彼は端的にそう言い切る。その言葉を見越していたのか、音ではない声はくすくす笑った。
――あなた、そればっかり。
「誤魔化しようがない」
――けれど勝手に動いたりしてはだめよ。使途たちが混乱してしまうわ。
そっと光が動き、女の困ったような表情を見せたが、それは一定の箇所に留まることなく霧散する。食い入るようにその幻を見つめながら、彼は口の端を歪ませた。
「案じろ。かと言ってそこまで積極的に動く気はない」
――よかった。けれど、どうして?
「奴の説教を二度と聞きたくない」
ふふふ、と笑い声。若い娘のような、妙齢の女性のような、大きな子どものいる母のような女の声が、彼の体か、頭か、心に響く。
その響きに心地よさを覚えるように、彼は薄く目を細めながら虚空を取る手を我が身に引き寄せる。
「総大将とは、熟(つくづく)面倒なものだ」
息のように言葉を吐き出す彼に、声は更なる苦笑を交えながらも宥めようと試みる。
――けれど、これで二度目のはずでしょう。
「あれは戦線に出る機会が多かった。しかし今は違う」
――当たり前です。あなたが頻繁に戦っては、彼らが乗り越えるべき試練がなくなってしまう。それどころか、あなたが試練に――。
「その方が余程単純で気持ちが良い。そう思わんか」
面白がるような彼の口振りに、けれど何かは響きを硬質にした。もしそれに実体があるのなら、口の端に浮かべていた笑みが掻き消えたように真剣な表情になっていただろう。
――思いません。あなたはまだ神としての責務を果たしていない。
「責務を果たせば、人に討たれても良いと」
――いつから自滅願望を持ったのかしら、あなたは。
呆れたような感情を少し交えた女の響きに、彼は短く皮肉めいた笑い声を挙げる。
「そんなもの、後にも先にも持った覚えはない。だが、命を懸けねば生きとし生けるもの凡て、堕落の一途を辿る」
女の響きが迷いに似た曖昧な音を持つが、明確な意味や言葉までは発しない。反発したい気はあっても、納得しているのだろう。彼はそのまま微細な意思を無視して続けた。
「百年命を賭けて戦った対価が堕落を導く平和であり下界の混沌ならば、俺たちの支配は誤りだった。そうと知れば、早々に座を明け渡す方が良かろう」
――下界に対する償いも行わずに、ですか。
「恩知らずと堕落、どちらがまともかは個人の判断による。案ずるな、次に神と為るもののために、座を温めてやるくらいはしておいてやる」
――けれど、それでは――
響きはますますもって切なそうに男の耳か、頭か、心に響く。けれど、男の表情に大きな変化はない。ただ少し何かを考えるように黙った後、宙に向かって手を伸ばす。
「……不満か?」
その手に触れるものはない。だがそこに話し相手がいるように、男の指は顎を掬う形を作る。
不意に、女が目を伏せるような輝きがちらと男の目に映った。
――あなたがそんな死を迎えるのは、いやです。
世界の理を知るものとも思えぬような感情的な意思表示に、思わず男は笑った。しかしその笑みに嘲りはなく、むしろわがままな言葉を選んだ女に対する愛しさを感じさせる。
「お前と同じ存在になると考えろ。ならば俺の死に悲しみなど感じる必要はない」
――けれど。
それでもまだ不満が強く残っているらしい響きに、男は吐息をついた。
「確かに、お前に実体がないのは不便だな。口を塞ぐことさえできない」
反応はない。のではなく、女の意識は黙っているのだろう。
刺々しいものを感じさせる空気が流れたが、それを過敏に察するほどの繊細さを持っていない男は、無言の抗議も無視して続ける。
「だがお前はもう死を迎えない。俺にとってはそれで十分だ」
――わたしにとっては、その逆です。
「分かっている」
再びの沈黙。
女のかたちをした輝きがゆらりと動く。否、動いたように見えただけだ。空気のように明確なものを持たないその存在が、動いたところで何の変化もない。
だが男の目か、心か、頭の中ではそうではなかった。髪の長い女がそっと自分の頬に手を当て、愛しげに撫でる姿が見えたのだ。――気のせいだとは思うし、その可能性を男も十分理解しているが。
――ジャガンデュラ。
意思から聞こえてくる名は、それだけが違和感を覚えるほどに明確な響きを持ち合わせている。ただその単語だけが現実で、女が放つ他の響きは全て泡沫のように淡く薄いとよく分かるほどに。
名を呼ばれることにさえ心地よさを感じながら、男は女の幻がやったように、何もない空間の、けれどあるであろう頬に触れる。
「……お前にもう名はなくなった。しかしそれは尊ぶべきことだ」
――なぜ?
「名もかたちを示す。かたちあるものは総て滅びを待つ運命にある。お前はもう、滅びずに済む」
――あなたは滅んでしまう。名を持つから。
「いいや」
その頬を引き寄せるように。男の意思と身体が動き、それに引きずられるように女の輪郭を描いた光が男の間近に一瞬だけ煌く。
その煌きは、男にとって懐かしく見覚えのあるものだった。ああそうだ、男にとって唯一全てを委ねられる女の清浄な青の瞳か、もしくはその白銀の髪の――
「お前と共にあろう。俺も、お前と同じ存在になる」
輝きに目を細めながらそう告げた男に、女の輪郭は戸惑ったような表情を浮かび上がらせた。
――なれるかしら。
「なる」
――本当に?
「ああ」
――絶対?
「しつこい」
――あなた、嘘つきだもの。
「お前はそれも見破るだろう」
――だから何度も聞いているの。
「ならば何度でも言ってやる」
そうして男はその口元に笑みを形作る。男にとっていつ振りになるか、それすら覚えていないほどの笑みを。聖神と呼び称えられているはずなのに、まるで悪魔が浮かべるような笑みを。
そしてそれを見たのだろう。女の響きが、笑い声に似たものを発した。
――ジャガンデュラ。
「何だ」
再び輝きが現れる。女の幻にとって、男への気持ちを示す何よりの言葉をかたち作るために。
それを見て、男も同じ言葉を唇だけでかたちを示す。
直後、一つの光と男の唇が重なり合ったが、それきり女の像は掻き消えて、その気配もなくなった。
取り残された男は一人、女の響きと言葉を交わす時間などなかったかのような表情で正面を見据える。けれどその指先は、先の柔らかな輝きを求めように、未だ虚空の何かを掴んだままだった。
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