その日も、茹だるような暑さだった。
少年はアスファルトの照り返しと容赦ない太陽の輝きに溶けそうなまでに汗を流し、両手の中にあるビニール袋を握り返す。その手は汗とビニール紐の跡とで、痛々しいほど赤かったが、本人はそんなことを気にしない。
今の少年の頭を占めるのはただ一つ、この仕事を早く終わらせることだけだ。そうすれば手ぶらで帰れるし、お金も貰えるし、そのお金で家の食事から回避できる手段ができる。
食べ盛り元気盛りの年齢にしてはほっそりとした体の少年は、そう自分を励ますともう一度ビニール紐を握り返して歩を進める。
しかし、その日の少年のコンディションは最悪だった。
ここ最近の猛暑続きの影響か、家の食事は酷さを増し、少年は何も食べないほうがましだと判断するほどだった。しかしそれを許さぬ養親は口うるさく、その影響で少年の精神面も刺々しくなる。結果、今日は朝から水道水以外口にせずここまで来たのだ。
おかげで少年は、ここまで辿り着いたことが幸運なくらいの体調だった。しかし幸運は奇跡ほど稀ではないし、その幸運も小一時間も続くはずはない。
当然、少年の体は次第に限界を訴えてきた。空腹感は既に麻痺したが、体が鈍く、視界も白くかすれている。体の中は熱いのに、なんだか肌がやたらと涼しく、足取りも視界と同じくらい――。
目覚めれば、どこかの家の中だった。あの凶悪なまでの日差しはなりを潜め、今は不思議なほど涼しい。おかしなことだ。自宅は、内も外も変わらない暑さだったはずなのに。
「気がついた?」
声がした方向を見る。そこにいたのは、養父と同じような髪の色をした女性だった。
「家の近くで倒れてたのよ。あなたが、あれを運んでくれたのね」
見てみれば、冷やした冷却剤をタオルで包んで額に当てていた。他にも、汗はきれいにふき取られ、タオルケットを胴体にかけられている。
「…あんたか?」
仕事の内容は、あのビニール袋の中身である沢山の果実を、依頼者たちの知人の家に届けることだった。その相手を少年は知らないが、その知人がこの女性なのだろうか。
しかし、言葉少ない彼の表現方法では、女性はよくわからなかったらしい。小首をかしげて、扇いでいたうちわをちゃぶ台の上に置いた。
「熱中症だけじゃなくて、貧血も起こしてたでしょう。だめよ、いくら辛くても朝ごはんはちゃんと食べないと」
「………」
食べようとしても味がしなかったり、ねっとりしていたり、甘かったり酸っぱかったり痛かったりなので食べる気がしないのだ。しかし、普段から言葉数少なく、他人と話すことにも慣れていない少年はそんな反論もできるはずがない。
「なにか食べる? するっとお腹に入るもののほうがいいでしょ?」
うつむく少年の意思をまるで無視するように、女性はよいしょと立ち上がる。
正直に言えば食事はしたくなかったが、体調の悪化に空腹があるのなら仕方ない。少年は、どんな味でも構わないと腹を決めで、女性の後姿を見送った。
そしてようやく周囲を見回す。天井が広く、掃除の行き届いた、大きな家だった。
家具は必要最低限のものに押さえられ、茶の間全体がすっきりとしているので風通りが良い。木の匂いのする風が時折吹いてきて、すだれの向こうがきらきらしている。別の部屋で吊るしているのか、ちりんちりんと微かな風鈴の音が聞こえた。
おつかいを頼んだ連中の家と似ているが、こちらのほうが休みやすい。
ぼうっとしながら待っていると、女性は案外早くに戻ってきた。黒塗りのお盆の上には、細々と小鉢が乗っている。
中身はほの温かい茶粥に、もずくときゅうりの酢の物、煮豆、出し巻き卵に冬瓜の煮物鶏そぼろ餡かけ。
見たこともない色鮮やかなものばかりで驚いた少年だったが、一口食べるとその驚きも吹き飛んだ。
あっという間に全て平らげ、少年はここまで食が進む自分に驚き、女性は少年の食べっぷりに目を見開いた。
「お腹すいてたのね。そこまで細いから、もともと食の細い子なのかと思ったわ」
最後に麦茶を一気に飲むが、胃の中はまだ物足りない。茶粥が盛られていた椀を凝視し、米粒をかき集める。
「…おかわり欲しいの?」
呆れ気味の女性の言葉に、今度は少年が首をかしげる。そんな言葉、知らなかった。
「もっと欲しいの?」
次は意味が分かって、力強くうなずく。しかし女性は信じられないものを見るような顔で、茶粥の椀を手に取った。
その顔を見て、自分はなにか変なことをしただろうか、と少年は思う。ああいう顔は今も以前もよくされているが、この女性はそれまでずっと笑っていたのに。
どうせまた、しつけがなっていないとか、ボーリョクテキだとか口うるさく言うつもりなのだろうか。しかし、ここでは自分はそういうことをした覚えはない。
「…はい」
沈んだ顔で戻ってきた女性の手には、こんもりと茶粥が盛られていて、少年はそれを急ぐように掻き込んだ。
「誰も邪魔しないんだから、そんなに慌てて食べなくてもいいのに」
しかし、今度はにこにこ笑う。養母と同じくらい、ころころと表情が変わる女性だった。
二杯目ともなると、さすがに少年の胃は落ち着いたらしい。少年は寝転びたい衝動に駆られた。しかし、女性のくすくす笑いのほうが先に聞こえてきた。
「ほら、慌てて食べたから色んなところにご飯粒」
指摘された通り、いくつかシャツの上やら腕や顔にも米粒が点々としている。それを全て摘んで食べると、少年は今度こそはふう、と大きな息をついた。
そんな少年を見て、女性は少し心配そうに身を乗り出す。
「あなた、お名前はなんて言うの?」
「ゼロス」
答えて、少年はふと気づく。自分が自分の名前を言うのは生まれて初めてかもしれないと。
「そう、それじゃあゼロス君。学校には行ってるの?」
首を振る。物心ついたときからいた施設では、そういうものの必要性はなかった。そして今も、特に重要性を感じていない。
「じゃあ、今なにしてるの?」
「今みたいに、仕事する」
女性の目がいよいよ大きく開かれる。鮮やかな青に、しかし少年は無感動だった。
「…なんでお仕事をするの?」
「金がいるから」
「どうしてお金がいるの?」
「家の飯はここみたいに食べやすくないし、すぐ腹こわすから」
「………」
今度こそ、女性は絶句した。それから真剣な表情に打って変わり、居住まいを正す。
「そう。じゃあゼロス君は、おうちのご飯が美味しくないからあんまりご飯を食べないのね。だから、他の場所で食べるためにお金を貯めてるの?」
頷く。
「それなら、自分で作ったほうがお金をあまり沢山使わなくて済むわ。それに、そうすればきっとご両親はその食材費…食事の材料のお金をくれるから、ゼロス君のお金を使わないでよくなると思うの」
そうなのだろうか、と少年は首をかしげる。
その気持ちを汲み取るように、女性はちょっとむきになるような顔をした。
「そうよ。お店の食事はね、実際に使った材料のお金と、手間代って言って、色々上乗せしてるの。けど自分で作れば、その手間代がいらなくなるわ」
それはよいことを聞いた。
とすれば少年は自分で食事を作ろうと思うが、しかし料理を全く知らなかった。
「おれ、やり方、知らない」
「お料理の? …そうね、わたしが教えてもいいけど、毎日ここに来るのも面倒でしょう」
「べつに」
素直に言った少年に、女性は微笑んだ。
「そう。お食事、気に入ってもらえたのね。…それは嬉しいんだけど、…そうね、ずっとわたしが一から教えると、ご両親がかわいそうだから、ご両親にもお料理方法を知ってもらうようにしましょうか」
意味が分からずきょとんとする少年に、女性は微笑んだ表情のまま首をかしげる。
「普段、お料理はお母さんがしているのよね?」
「オカアサンじゃない、デナ」
「けど、デナさんはあなたにお母さんって呼ぶように言ってるでしょう?」
「ん…」
うつむくように頷く少年に、女性はやはりと頷きながら体勢を変える。
「それじゃあ、お父さんのほうに一度お話を持ちかけてみるわね。あなたの今日のお仕事は、ムゲン様たちからお願いされたのよね?」
頷く。
「わかったわ。後でお話ししておくから、今日はこれからお勉強しましょう」
「なんで」
本当に唐突で意味が分からない少年に、女性はあくまで笑顔のまま立ち上がった。
「なんでも」
そのきっぱりとした物言いか、目が笑っていないことを見て取ったのか、初めて人の笑顔に恐怖を感じた少年は、大人しく女性の言う通りに従った。
「へー。ゼロスってスノーさんに義務教育教わってたんだ~」
「デナさんもデューザも、そういうこと気にしなさそうだしね…」
しみじみとしたアデルの言葉に、タバスコを掛けるのに必死だったアリアは苦笑気味に手を止める。
「気にしないのではなく、初期のヒトゲノムは物心ついたときから日常に必要な知識があるんです。だから、ゼロスさんもそうなんじゃないかと思っていたのだと…」
「なるほど」
納得したリディアが大量に素麺を掬い上げ、その量にアデルが声を挙げる。
「ちょっと、リディア! 取りすぎでしょ!」
「んじゃ、おすそ分け?」
「やだっ、わさび付いてるじゃない!」
「それくらい、いいじゃーん。アデルってば子ども舌なんだからぁ」
喧しい少女たちの声に、野外で修理作業に勤しんでいた汗まみれのゼロスが眉間に皺を寄せながらそちらを見る。
「あいつら、俺のついでに来たのになに勝手に飯食ってんだ…」
「心配しないで、ちゃんとゼロス君の分はあるから」
と言いつつ、自分もしっかり素麺を茹でている活動中のスノーがくすくす笑う。その楽しそうな笑みに、皮肉めいた笑みを返したゼロスだが、気づいたように一言付け足した。
「おい、いい加減、君付け止めろ」
「最初に言ってくれれば止めたんだけどね」
つまり止めるつもりはないらしい。
憎たらしいが世話になった女性の手前、恨めしく睨むだけに留まると、ゼロスは再び作業に戻った。
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